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第222回学習会記録


日時:2015年1月30日(金)18:30〜20:00
参加者:17名
内容:「 私の司書業務歴のなかの新生府立図書館の開館〜よもやま話 」
発表者:小山 雄一(元京都府立図書館長)

 司書人生を形成したのは業務歴そのものであり、それを振り返ってみるために蓄積保有する資料を整理した。15冊のファイル(厚さ4〜5p)になった。
 業務歴の年表(1965[昭40].4〜2004[平16])を主軸として、府立図書館の新館建設にかかる記事類、影響を受けた図書館界の出版物、海外図書館視察歴(韓国、香港、シンガポール、ハワイへの図書館視察で得た知見は後々の状況判断や決断に大いに役だった)、私の拙筆等を時系列に記述して作成したのが配布資料である。これを斜め読みしながら思い出すことを話す。

 京都府に赴任したはじめの頃(1965[s40]〜)は、府立図書館が総合資料館になるのだと思い込んでいたので、府立図書館が存続してゆく過程に驚いた。職員組合の総合資料館支部と教育支部図書館分会の間での議論も不毛であった。

 資料館支部の役員をした時期(1975[s50]頃)に資料館当局との協同の委員会において「京都府立総合資料館の任務と現状と課題」をまとめる作業を行った。これは資料館の転機にもなった。
 『図問研京都No,1』(図書館問題研究会京都支部 1976[s51.9]刊;この誌は主宰者が長期病欠となり続刊は軌道にのらなかった)にその内容を寄稿している。

 1986[s61]年4月に20年間の総合資料館勤務から府立図書館へ異動することになった。総合資料館内では頻繁に異動は経験していたが、この異動は晴天の霹靂だった。
 府立図書館に赴任して感じたこと。職員組合サイドを中心として「市民の図書館」を信奉している館員が多く、その実践として、はやりものの配架が多かった。少ない資料費でもあり一方的に寄贈されてくるいわゆる“○○本”(科学的根拠の不確かな病療法と薬まがいの商品を宣伝する類の本。後年に刊行自体が違法と成った)が多数開架に並ぶことにも驚いた。

 この頃、いわゆる「中小レポート」に続く『市民の図書館』(JLA 1970[s45])に席巻されている公共図書館論に違和感を持つ日々が続いていた。
 1987年に『公共図書館のガイドライン〜IFLA東京大会記念資料別巻』(JLA 1987[s62])と出会う。
 京都府立図書館をはじめ貸出至上主義の日本の公立図書館の在り方との相違を思った。

 1988[s63]年に「新しい時代(生涯学習・高度情報化時代)に向けての公共図書館の在り方−中間報告」(社会教育審議会社会教育施設分科会)が出された。私が考えていた図書館像に近い内容であり、報告の作成に関わった竹内紀吉初代浦安市立図書館長を講師に招いて勉強会も行った。
 府立図書館の新館計画つくりに関わった最初の出来事は、府教育長の府社会教育委員会議への諮問「生涯学習社会を展望する京都府の図書館の在り方について」に対応する本庁社会教育課の事務に携わったこと(1986[s51].8〜1990[s55]である。図書館併任の社会教育課主幹にもなった。
 府社会教育委員会議の答申案「生涯学習社会を展望する京都府の図書館の在り方について〜中間報告(案)」の中で、図書館と資料館の一体化に触れていたため、図書館が属する教育委員会、資料館が属する知事部局の間で協議が続いた。同時期、教育庁、とりわけ社会教育課は生涯学習の用務(生涯学習推進会議の立ち上げ、生涯学習フェスティバルの開催等)も多忙になり、社会教育委員会議の事務局作業は進まなかった。

 1991[h3]年、併任が解かれ府立図書館主幹兼庶務課長となった。社会教育課には私の後任として他の府立図書館司書職員が兼務発令された

 1994[h6]年 宇治市中央図書館の館長に出向した。議会答弁の体験、西宇治図書館建設準備が楽しかった。市町村立図書館の現場を体験して、『公共図書館のガイドライン〜IFLA東京大会記念資料別巻』が公共図書館の在り方、中でもその中における府県立図書館の役割を明示するものであり、『市民の図書館』は日本における市町村立図書館の当面のなすべきことを示しているものであると、自身の考えを整理することができた。

 1995[h7]年、韓国旅行の際、慶州市立図書館を偶然に訪ね初めての海外図書館見学をした。
 ローカル新聞を光ディスクに取り込む作業を目の当たりして刺激を受けた。

 1996[h8]年2月、香港図書館協会を通じて香港の図書館を視察した。公共図書館先進のイギリスが経営すること、中国復帰前年であり以後との比較が将来に行えるだろうとの期待が訪問動機であった
 インターネットでの目録公開や児童も使えるマルティメディアサービス、自動貸出機、ブックディテクションシステムなどの活用を目の当たりにして、日本におけるこれらへの否定的状況との相違を痛感した。香港の図書館員は日本のリクエストサービスは不公平だという見解を述べ、同行した市町村立図書館の人と活発な議論が展開された。多々興味津々の香港ライブラリーツアーとなった。ここでの経験は、以後の判断材料に大いに役立った。

 1996[h8]年4月 総合資料館文献課長として府に呼び戻され、府立図書館と総合資料館の蔵書一体化をどのように円滑に行うかと、総合資料館の図書部門(文献課)職員の意識改革が使命として与えられた。
 不思議なことが起こった。本庁企画理事併任の新館長の赴任顔見せが遅れた。5月になって、赴任するや文献課は存続するという方針転換が示された。総合資料館が成り立つように移管資料と存続資料の選別を行うことになった。
 東寺百合文書の国宝選定により、文献課と歴史資料課の関係も変わりはじめた。
 この時期の新府立図書館建設経過を舞台裏を含めた詳細ルポが「ある解体 38年目の返却」という読売新聞連載記事としてまとめられている。

 1998[h10]年6月 府立図書館館長となる。またも仰天の人事異動である。今までと立場が逆転した。以後は両館の将来展開が可能な判断をするよう心がけたと思っている。
府立図書館長とし対峙しなくてはならなかったこと、苦悩させられたことを概観する;
 ●本庁教育委員会との連絡調整協議、●知事部局との協議 ●総合資料館との作業調整、●合体させねばならない資料群(総合資料館から移管分、仮施設での運用分、鳥羽高校にダンボール詰め仮置き保管分)、●職員の意識のギャップ(組合を含めて)●資料のデータ化、●京都府総合目録ネットワークの構築と市町村立図図書館との調整・協議 ●住民運動体の動向 ●新館構想段階での府議会議論(60席の閲覧席、児童書非購入等)

・配布資料「これまでの経過報告」<平成13[2001]年5.23開催の京都府総合目録ネットワーク会議のレジュメより>
・配布資料「随想 再出発の府立図書館」<『統計京都』2001.4より>

 2003[h15]年 ハワイの図書館を訪問し、アメリカの公共図書館のサービスの現実を知り感心した。
 例えば、延滞にはシビアに罰金が課せられていた。権利擁護とともに義務履行が求められている。日本とは異なる世界であった。

参照「アメリカ合衆国の図書館事情 ハワイにおける図書館情景」<『図書館きょうと No.43』(府立図書館報 平成16[2004]年1月15日)より>

質疑応答

Q:「市民の図書館」への違和感とカウンターでレファレンスサービスができないという論について詳しく説明をしてほしい。
A:貸出業務に忙殺されて、丁寧なレファレンスサービスを行うことはできないカウンターの現実。
  図書館の在り方論も変化している。場としての図書館が重要視される時代になってきた。

Q:京都図書館協会のことについてお聞きしたい。
A:協会そのものは、事務局を加盟館で持ち回りにしたため、体制の弱い大学図書館が順番に当たった時に事務局が立ち上がらず開店休業に陥った。
  そのため、別組織である京都府図書館等連絡協議会を立ち上げることになった。
  全館種の集いとして京都府図書館大会を開催することにもなった。当初は日本図書館協会の40周年事業としての補助金を受けた。

Q:資料館と図書館の資料移動で苦心したことや両方の長を務められて感じたことは
A:図書館長時代は多忙のため立ち止まって考えている余裕はなかった。
  図書移動については文献課長として文芸室の担当主幹と直接打ち合わせを行った。知事部局は教育委員会よりも専門職を尊重する風土があったように感じた。当時の人事課や財政課の担当職員とも忌憚なく話ができたため、将来にわたって、市町村立図書館との立ち位置を明確にした図書館運営を行ううえで、定期的に専門職を採用する必要性を訴え、理解が得られた。 この時期から司書数減に適時応じて再び司書が採用されるようになった経過がある。

Q:数多くの業務を歴任されたが不満を持つことはなかったのか
A:ほとんど、感じることはなかった。戸惑ったことはあった。   常に、「負けてたまるか」の心意気で仕事をプレイする感覚で過ごしてきた。
  しかし、府立図書館館長時代は自分でもよくやったと思う。行政の組織の力というものに今更ながら驚歎する。

Q:図書館反対の住民運動の構成はどうであったか。
A:京庫連の母親グループや図書館員などであった。
  京都新聞の投書欄「声」にも図書館利用者の投書があり運動する人と連動していた。

Q:議員とはどのように接したのか
A:与党か野党かによって行政当局の対応は変わる。与党には丁寧な対応をする傾向がある。

Q:府立図書館の開館と国会図書館関西館の開館が1年違いであるが、当時、関西館とはどのような関わりを持ったのか
A:国会図書館側は単府県との格別の連携には消極的だった。
  後年、精華町図書館の嘱託館長時代に関西館次長が変わり、地元地域との連携に積極的になってきた。近年、府立図書館の連絡車の周回も実現し嬉しく思っている。





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