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学習会記録(第198回)


日時:平成24年10月27日(土)
参加者:5名
内容:秋の見学会「彦根城博物館・彦根城」施設見学
場所:彦根城博物館・彦根城(彦根市金亀町1-1、彦根駅より徒歩10〜15分)

1.彦根城博物館
・井伊家伝来の美術工芸品を収蔵・展示する施設として博物館建設が計画された。当初は井伊家所蔵で、平成6年に彦根市に寄贈された(当時当主が市長だったため、市への寄付行為は公職選挙法に違反するため)。
・昭和62年(1987年)2月11日、市制50周年を記念して開館。
・江戸時代に彦根藩の政庁(今でいう市役所)であった表御殿の復元と博物館機能の一体化を目指した。
・当時、特別史跡内に建物を新たに建てることは認められておらず、交渉を重ねて、資料にもとづいて江戸時代の建物を復元することで建築の許可がおりた。
・一方で博物館としての耐火、耐震は必要。結果として、外観は和風だが中身は鉄筋コンクリート。ただし、一部木造により復元。
・遺構の上に建築することになるので、基礎を打つのが大変だった。
・能舞台の位置には当初、将軍が上洛する際に使用する宿泊用御殿があったことが、絵図や資料で判明した。
・藩主の好みによって、生活空間は変わっている。
・将軍の上洛が途絶え、1800年頃から能舞台として使用され始める。能舞台は、表御殿唯一の遺構。明治初年、表御殿が取り壊された際、市内神社に移築してあり現存していた。博物館建設に当たり元の位置に戻す。
・地下はなく収蔵庫も一階にある。能で使用する際はガラス建具を外す。
・能舞台は土日はサークル活動に利用されている。

2.武家の備え
・譜代筆頭の井伊家として武具の備え。赤備えは旧武田家の装備に由来する。
・兜の角の違いで、家来と殿様の見分けがつく。Vの字は家来、側頭部から生えている場合は殿。ひこにゃんも殿様仕様。
・武具だけでなく文化的な面も。その一例が能。
・月一で展示替え(能の服、模様が違う)
・大阪冬の陣で真田幸村隊と戦った若江合戦図。武具が赤対赤で敵味方の区別が分かりにくい。
・背の幟に名前があり、子孫がご先祖探しに来たこともある。
・井伊神社から奉納されたもの。文書から描き起こす。先祖あっての自家ということで、自家のアイデンティティを確認するためにも描かす家もあった。
・黒漆塗りの拝領品の馬の鞍。赤漆塗りの橘の紋入りの鞍。
・刀の鞘は、公式な時は黒、普段は紋様入り。
・太刀と刀。説明書の絵は精華大生が描いたもの。

3.「焼物と井伊直弼」
・昨日から新たな企画展示が始まり、ちょうど展示品についてのギャラリートークが行われていた。
・直弼の自作品(楽焼)が多く残っている。28件。素人の数としては多い。今回は他所から一部借りてきた。
・作品を見ると成長の過程がみてとれる。
・拙い物から巧みなものまで、28歳頃から作り始めたという資料がある。
・橘紋の焼き物。凸凹した質感。蓋置。釉薬の発色が鈍い。
・土の扱い、釉薬もしっかりと塗る。熟練の段階がある。釉薬の使い方がうまくなっている。
・湖東焼にも関わる。民間発祥から井伊直亮の時代藩の窯となる。世継(藩主前)時代から傾倒。
・下絵を渡して作らせるほど、直弼は詳細に指示していた。直弼直筆の注文書き(例:近江八景の柄を入れるように)。
・京焼に興味があり、京の名工の名が記録にある。
・焼物が人気の時代。創作的な作品が登場。
・同時代の作品を今焼きと読んだ。軽ろき焼き物に対して、拝領物・唐物。
・風炉の夕顔の絵は直弼の図案。下絵の写真もある。
・売れっ子作家との交流。デザイン性に優れた作品。
・直弼イメージは、わびの雰囲気が強いが遊び性の強いものも好んだ。
・関東大震災で焼け残った品も。

4.幽玄の美
・能面は色々なものがあり、江戸時代より前の物も。
・自分も舞う殿(=変わり者)は、家臣を能の心得のあるもので揃えた。そのおかげで今に伝わる。
・能装束は他家からも。昭和・大正のものが多い。
・展示することで虫干しの代わりにもなっている。出品できているのは状態が良いからこそ。

5.数寄の世界
・『鉈鞘花生』は直弼作(朱書きで書いてある)で一輪刺し。
・直弼流派を作るほどの凝り性。家臣に習わすためのテキストまであった。
・学習コーナーに『侍中由緒帳』『彦根藩史叢書』『彦根城博物館叢書』『彦根城博物館だより』といった図書もあった。
・マイクロフィルを紙焼きし、参考にして資料を作成。
・『彦根博物館だより』はA3を半分にしたもので4ページ。年に4回発行。
・図書室機能を備えた学習コーナーが設置されていることで、博物館に文書館機能を兼ね備える。
・テーマを決め、研究し成果を書類にして残す。年に3,4回研究会がある。

6.雅楽の伝統、風雅のたしなみ
・正倉院ほどではないが、鎌倉〜江戸期のよいものがある。12代井伊直亮(なおあき)が興味を持ち収集。
・廃藩置県後、絵画は高額に換金できるため手放されたり、東京に持って行ったために関東大震災で焼失してしまった。
・彦根は京都に近いので公家との交流が多く、その関係から公家の書が多い。
・能舞台の座席表も伝わっている。起こし絵図があったので、庭園も復元できた。
・庭園だけでなく、御殿奥向き(藩主の生活空間)も復元できた。御座之御間、御寝之間、御客座敷(他よりおしゃれ)など。

7.古文書が語る世界
・『御城内御絵図』。文化時代(1800年代)のもので、壁に磁石で貼り付けて展示。
・『徳川将軍判物判箱』(領地宛行状)の写し。本物は明治政府に提出したが、焼失してしまった。
・御書判のところに花押があるが、実は花押自体の判子がある。
・『判物写・領知目録写郷村帳写目録』。虫干しのことについてまで指南してある。
・『間部詮勝(まなべ あきかつ)宛』書状。中山道の道中から京都での政治工作を暴くよう指示。
・反対に間部詮勝から井伊直弼への書状もある。
・現代人には、間部詮勝の書は割と読みやすく、井伊直弼の書は判読が難しい。
・井伊直弼の実像は古文書からわかるが、反対派によって作られた虚像の部分もある。古文書研究を通じて真実を発信していきたい。
・『朝鮮人道見取絵図 巻一(部分)』
 本物は(高さ)40cmでそれを約5倍に拡大したものが、案内の前に展示してある。
 拡大されたことを考慮すると、元の絵は小さいにもかかわらず相当精緻なものだとわかる。
 通信使饗応のための人員配置は軍事演習の代わりであったともいわれる。

8.彦根城に登る
・明治初期に取り壊しかけ、表御殿は更地になった。天守も取り壊す足場まで組まれたが、寸前で保存された。
・更地ゆえグランド状態で、年配者は野球をしたと物語る。
・城内は特別史跡のため、建築計画を立てても実現が困難であった。
・三層まで急な階段を上がる。
・一層に彦根市観光のための吉田初三郎画の鳥瞰図(本物)があった。








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